くまの書評ブログ【すべての書籍は血肉縁】

“血”となり“肉”となり、人々の“縁”となる読書の素晴らしさを、野獣目線で呟いていきます。

つげ義春【無能の人】を読む

 

無能の人・日の戯れ (新潮文庫)

無能の人・日の戯れ (新潮文庫)

 

 

    この本を最初に読んだとき、なんて私小説的な文学だろう、と思ったものだった。これだけ自分の中で自己完結しながら、自分の本分である漫画から遠ざかった挙句、売るものが石だとかカメラだとか、そういう発想で昭和の時代に生き、自分にも他人にも苦労をかけている。あまつさえ自らを無能と称し、実際に妻子に罵られ、甲斐性のない日々を過ごしている。
    現在の視点から見れば、そんなつげ義春氏が無能なわけはないことは、今も語り継がれている氏の名作漫画の数々を見れば一目瞭然なのだが、それでも生活をしていくという面で言うと、「自分がやっていること」の滑稽さを心のどこかで自覚しながら、まともな金を稼げずにいることに対してフラストレーションを抱いている。
    もともとディレッタントな面を持つ著者が、人生が行き詰まったところで思いついたことを漫画の題材にしたり、そればかりか実際に職業にしようとしたり、この作品以上に、現代社会を生きる、という意味や理由をこれだけ考えさせられる漫画を、私は他に知らない。

    石を売るのだって、カメラだって、ただ生半可な知識をかじっただけで自分も儲けられるのではないか、と思ったところから始まっている。
     ただ、この虚無感は、もし万が一石が売れたり金銭的に潤ったとしても、抗えない自分の弱さや生き辛さと戦っているがために、結局ダウナーの方向へと進んでいってしまうのだろう……

 

    主人公:「オレはカメラ屋になるしかないんだ。もう漫画なんか描いてやるものか」
    妻:「(2コマほど間を置いて)私恐いわ。あなたの性格って自分で自分をダメなほうへ追い込んでゆくんだもの」

 

    さて。
    人間というのは、中庸が大好きである。
つげ義春氏が自分を無能と言うのは、一つの人間の弱さを書いていると思っていたのだが、実はそうではない。それ以前に社会が作り出した「能のあるもの」という枠組みの中で右往左往しているだけに過ぎず、それでいて自分の中の世界があまりに強すぎて固執してしまっているからなのだろう。
     人の言うことはしっかりと聞かない、自分にできることを積み重ねようとしない。
     しかしそうだからと言って一体、社会が作り出したはみ出し者というレッテルを貼り付ける権利が誰にあろうか。
    また、これに対して、巷に出回っているハウツー本に代表されるような成功者の意見というものが、どれだけ中身が軽いものが多いことだろう。わかっていてもそれを買って読んでしまう人も沢山いる。人間を一番成長させてくれるものは経験だが、その経験を得ずにして巨万の富を得たい、人から成功者だと思われたい、読んだだけで成功している気分になりたい、と思う人と、普段から自分を駄目な方向へ持っていく精神。もしかして根っこのところは同じなのではないか?(その手の本を批判するわけではないし、いろいろな意味で重要な役割を担っているとは思うが、経験をしないで最低限の「生きる」という努力を怠ってはならないということは、以前このブログの為末大氏の著書の記事にも挙げた。)
    成功者によるハウツー本の話を出したのでついでに言わせてもらうと、その手の本の作者がいくら読者に説得性をもてるくらいの体験とバックボーンがあったとしても、読んでもやらない人はやらないし、自分を駄目な方向へ追い込む人は追い込むし、言い訳もする。その成功者に対して「いや、この人はこういう環境にあったから出来たことだ」とか「自分にはこの人ほど才能がないからこれに書かれてある内容は結局勝ったものの傲慢でしかない」とか。
    一方、つげ義春氏の【無能の人】のような作品では、無能を自認する読者にとってシンパシーやカタルシスを得られる場合もあると思われるわけだが、もし今の時代に別の誰かがこんな感じの本を出したとして「現在進行形で」貧困生活を余儀なくされていたら、「自己責任」とか「要領が悪すぎる」とか、説教する輩も少なからず現れるだろう。本当に、日本人というのは中庸を好み、金持ちであろうと貧乏人であろうと、平均的な生活を送れていない人には厳しいのだ。
    ただ、それを乗り切って個性を活かして強く生き続ける人こそが真の強者と言えるのだろう。それを考えると、やはりこの【無能の人】という作品は考えさせられる。資本主義の社会が生んだ鬼子のようなものだと思っている。
    世の中の社会変革運動に積極的に参加するのも良いが、自分の個性を受け入れ、自分を変えていく。それこそが実は一番人や社会を変えていける力をもつのだろう。