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くまの書評ブログ【すべての書籍は血肉縁】

“血”となり“肉”となり、人々の“縁”となる読書の素晴らしさを、野獣目線で呟いていきます。

【佐藤愛子】死生観を真正面から考え、生きる【こんなふうに死にたい】

  創作活動を長年続けながら、93歳になった今なお「九十歳。何がめでたい」「それでもこの世は悪くなかった」など、ベストセラーを連発する女流作家、佐藤愛子氏。
  今回は、少し古いが、氏の死生観について述べたエッセイについて書きたいと思う。

 

こんなふうに死にたい(新潮文庫)

こんなふうに死にたい(新潮文庫)

 

 

 

  人は皆死ぬ。佐藤愛子氏が初めて死について考えたのは小学生になってからだという。何故、人は死ぬのだろう? それは自分はおろか、誰にも分からなかった。この世に生きるすべての者が、死について何も知らない。何故生まれて、何故死ぬのか。
  昭和50年、氏が51歳の時に、北海道の浦河町に別荘を建てたところから、霊的体験が始まる。屋根の上の不思議な足音、それも普通の足音ではなく、ズシンズシンと鳴り響くような音。他にも書物が減ったり、灯火が急に消えたりする。一体これらの現象は? と思い、美輪明宏氏に電話をかけると、美輪氏は
「佐藤さん、あなた、たいへんなところに家を建てたわねぇ……」
  美輪氏は電話口から、その場所の風景を言い当てた。そればかりでなく、その別荘のあった場所がかつてアイヌ民族の古戦場だったこと。戦死して成仏出来ない霊がうようよしていること。別荘のある丘がその集落を守る神様の丘であって人間が住んではいけない土地であること。どれが霊魂の仕業でどれが神様の怒りなのかわからないほどに錯綜しているのかを告げた。

  そこから、佐藤氏は様々な怪現象(と一般では言われているもの)に遭遇する。頻繁に投げかけられる霊からのメッセージ、大いなるものの意志、そして、ウラカワが前世の故郷であることを察する。美輪氏からも、佐藤氏の前世はアイヌの女酋長であったとも言われる。何故それがわかるのか、というのも、美輪氏によれば「それは……要するに……わかるのよ……」

 

  かくして
  この本で佐藤氏が書きたかったことは、霊体験についてであったり、ましてや死というものについての願望なのだろうか。答えはもちろんNOである。

  本来見えないものが見えてしまった時、否が応でも考えなければならない死と、その後の世界。そしてそこに行き着いた果てには、最期を飾りたいと思うといったオカルティズムな発想ではなく、より良い人生を生きようとする強い思いのあらわれである、ということを、本書は教えてくれる。
  佐藤氏曰く、自分が毎朝神仏に祈るということは、赦しや救いを求めているのではなく、健康や繁栄を願うためでもない。数々の体験をしてきた氏が「確実に存在するもの」に対して親しみと畏敬をもって挨拶をしているのである。そこには、佐藤氏が体験してきたことや見える者としての生への望みと、素晴らしい説得力が読み取れる。
  美輪明宏氏もまた、別の書籍でこう述べていた。「生まれつき目に見えない人に色の違いの説明をしても判別が出来ないのと同じで、霊が目に見えない人に対して見える人が『そのうちわかる』とは言えないのである」と。ただし、そこで肝要なのは、霊的体験をしてきた人間としない人間に差がある、というスピリチュアリズムな話ではなく、今生を真剣に考え、自らのアイデンティティをより深めるという、生に対して極めて前向きな考えを示すことの大切さを問うているのである。たとえ見える者と見えない者がいても、それこそは、生きていく上で誰にとっても避けて通れない、見なければならないものなのだ。
  本書は、佐藤氏の霊的体験によって、死生観から現在の生への説得性をもたせている。自らの死に際を考えるのではなく、自分にとって体験したすべての物事に対して敬意を払い、生への思いを強く考えつつ生きていくことこそが大切なのだと。

 

  ちなみに私は現在のところ、生まれてこのかた一度も霊を見たことがない。しかし、たとい見えざる者としても、これから見える者になるかもしれぬ者としても、生きる者として、自らの一生を最期まで生き抜きたい、と本書を読んで改めて思った。