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くまの書評ブログ【すべての書籍は血肉縁】

“血”となり“肉”となり、人々の“縁”となる読書の素晴らしさを、野獣目線で呟いていきます。

【第154回芥川賞受賞作】防腐剤にまみれた小説【死んでいない者】

 

 

 

死んでいない者

死んでいない者

 

 人間は食べ物に対して好き嫌いがある。

 芸術に対しても好き嫌いがある。

 しかしすべての食べ物はそれぞれの形で生きる力の源になる。

 そして僕は書物を読むこともまた血肉になると思っている。

 栄養学上では、健康を害さない食物を摂取することが良いとされるが、僕は決してファストフードが悪いという訳ではないと思っている。僕も普段生きている中で、健康を意識する日もあれば、ハンバーガーとポテトだけ食べる日もある。読書だって文学や実用書を読むときもあれば、通俗的なお色気漫画を読むことだってある。

 しかし人生は短い。時に効率性や限度といったものが求められることもある。書物を読むときは、出来るだけその人の人生に合ったものを読んで、その人に与えられた限りある時間を有効に使う必要がでてくることもある。どんな書籍でも、いくら内容が自分に合わないものであっても著者の魂がこもっているとはいえ、人一人が一生の間にこの世にあるすべての本を読破することなど到底不可能なのだ。

 それならば、自分が面白いと思ったものか、古典や名作、もしくは鮮度の高い本などを率先的に選んでいけば、とりあえず時間の無駄になる可能性は低い。

 つまり、芥川賞という防腐剤で保護されただけの作品は、後回しにしてよい。

 この本で得たものは、良薬は苦いが、役に立たない薬もまた不味いという教訓だけだ。

 

 【死んでいない者】

 本書を手に取った時、「この作者はトートロジーが好きなのかな?」と思ったが、単に読みにくいだけだったと気付くのにそう時間はかからなかった。

 

 人は誰でも死ぬのだから自分もいつかは死ぬし

 

 夕べなくなった。つまり死んだ

 

 それは確率じゃない。私たちが出会った奇跡は、確率じゃない

 

 昔飼っていた飼い犬べスのことばかりだった

 

 読んでいる最中、僕は悶えた。ずっとずっとずっとこんな文章が続くのであれば、この作品を読むということにとてつもない不毛ぶりに嫌気がさす。そしてその苦痛と無味無臭ぶりは最後まで消えることはなかった。昨日と同じことは言いたくないが、わかりにくいことこそが文学の真髄などという幼稚な考えは、もういい加減選考員も受賞者も互いに自重してほしい。しかも今回は、両作品とも意図的に惑わしたものでなく文章作法が整っていないだけの代物に過ぎないという結果。はっきり言って内容だけでなく選考基準も非常にお粗末だ。

 通夜を過ごし、生き残った人を書くというシチュエーションも、似たような作品なら他に沢山ある。例えば僕が好きな作家で言えば皆川博子氏の著作。そして皆川氏の短編作品の中で、本作よりも薄っぺらい作品がただの一つもないことも知っている。文章構成力や心理描写などを含めた全ての要素が桁違いだ。同じ時間と金を払うなら当然ベテラン作家の著作を選び、読破する。それこそ僕が死んでいない間にやっておきたいことだ。

 オムニバス形式にもなっているのかいないのかわからないし、人物描写がてんでバラバラで頭の中で整理しにくい。そしてこの本を読むにあたって、マッピングするかの如くわざわざ登場人物を紙に書いて箇条書きする必要性もほぼ皆無に等しい。そんなことをしてまでこれを精読しようとするなら、さっさと投げ出して別の本を読むか、斜め読みするか。そちらの方がよほど有意義だ。

 栄養満点でなくていい。もしくは健康に悪くても美味しいものであればいい。百譲ってプロテインやビタミン剤のようなものでもいい。そういったものは少なからず需要側のことを考えている部分があるからだ。しかし、防腐剤のような、供給側の都合で塗り固められた作品を選ぶほど我々読者は暇ではない。この本は文学史に残るだろう。芥川賞という名前だけ立派なものに成り下がった陳腐な栄誉によって。例えばウィキペディアなどで一応名前だけはずっとずっと残ると思われる。買ってから6年経った後のジャンクフードのように、科学的な添加物に守られることにより、腐って原型をとどめなくなる、ということはとりあえずない。でもそれだけ。本当にそれだけ。

 いつもよりかちょっと早いけれど、もうこれ以上長々と語りたくない。文章を書くだけでなく、売るという行動に出るのなら、供給側はもう少し考えてから世に出してほしいものだ。