くまの書評ブログ【すべての書籍は血肉縁】

“血”となり“肉”となり、人々の“縁”となる読書の素晴らしさを、野獣目線で呟いていきます。

【第154回芥川賞受賞作】物語がわかりにくい=純文学という時代はとうに終わった【異類婚姻譚】

 

異類婚姻譚

異類婚姻譚

 

 たまにはライトノベルでも買って読もうかな、と思って本屋へ向かった。

 店内はそれほど大きくなかったので、新刊コーナーのど真ん中に、平積みになっている文芸春秋がすぐ目に入った。

 ああ、忘れてた、1日くらい買うの遅れちゃったかなと思いながら、929円をレジで払う。500~700円のラノベを買う予定だったので少し予算オーバーになってしまったが、まあこれ一冊で芥川賞受賞作品が二つも読めるのだから文句は言うまい、とも思ったり。つまり、この記事の一番上にamazonの【異類婚姻譚】の商品紹介があるが、単行本で購入してはいない。。。だってお金ないし。

 

 まず最初に、本谷有希子氏の方を読む。滝口悠生氏の【死んでいない者】については、この記事を書き終った後読んで、明日書きます。

 

 開始数ページ。

「え……これ本当に最後まで読まなきゃダメ?」

 別に誰からも「読め」とは言われていないのに、そんな気持ちに。

 

 僕は本を読むのスピードはそれほど早くないが、とりあえず一時間半ほどかけて一回だけ通読した。わからなかったところは後からまた読んで確認してみればいいや。と思ったが、そうする気力さえ残らなかった。

 

 いやちょっと待って……いかんでしょ。これほどまで、読み終った直後に、心に響くエピソードや人物の印象が残らない作品はそうそうないよ……。最近本を買う時はひたすらネットで面白そうなタイトルや自分好みのストーリー展開が繰り広げられるものばかり選んでいるからな。単純に〇〇賞受賞作品、というだけで買ったら怪我するってことは、これまでの読書人生の中で骨身にしみて知っていたはずなのに。

 だがしかし。自分は、このブログ名にも書かれてある通り「すべての本は、それを読んだ人ののちの人生に役に立つ」ということを信条としている。ただ単に“本を読んだけど良くなかった”という感想だけで終わるのはそれこそ芸がない。従って今回は、この本を読んでから、僕が小説を執筆する上で、好ましくない文体というものがあることに一つ気付いたので、それに焦点を当てて話そうと思う(ここから先もうちょっと堅い感じで書きます)。

 

 見つけた答えは主人公がストーリーを牽引するのか狂言回しの役割を演じているのかはっきりしていない文章で書かれた作品は、正しい文で構成されているとは言えない、ということである。

 

 日本の純文学は何故か一人称小説が多い。ただし、ストーリーが進んでいく中で物事を主観的に捉えた主人公もしくは語り部が、その物語の中でどのような立場に置かれるのか、というのは、作品によって違う。一人称という形態によって“語る”その人物は、時にはストーリーを引っ張りながら話を創り、またある時は傍観者になる――場合によっては、「僕」「私」という人物の目線で話が進んでいるはずなのに、あたかもその人物が物語のキャラクターの一人として取り扱われていないような作品も存在する――。つまり原則として一人称という文体で書かれた以上、書き手側には、その進行役が話を盛り上げていく立場なのか、あるいは語り部が単なる脇役にすぎず主要人物は別にいるのか、ということを、物語が始まってから出来るだけ間を置かずに、読み手側に教える義務がある。これが守られていないと、ストーリーの起伏や芸術性以前に、ただ読者を混乱させ、話の筋をわかりにくくさせるという、文章作法からして不完全な小説が出来上がってしまう。この作品では主人公がストーリー全体においてどんな役割に収まるのか、ということは、残念ながら最後のページを迎えてもわからずじまいだった。完全な消化不良である。

 僕が読んだものの中での話だが、商業出版されていて尚且つ高い評価を得ている現代の一人称小説では、ほぼ完全にその作法が守られていた。もちろんミステリー作品よろしく、一人称の文体で始まることを逆手に取り、後になってから良い意味で読者を惑わすものも存在する。だが少なくとも現代の純文学において、ストーリーを組み立てていく役割が結局誰なのか理解させないまま読者に淡々とページをめくらせていくという文は、単に読み手を煙に巻いているようにしか見えない。出来の悪い実験小説のように、わかりにくい文体でつづりながら勝手に話を展開していくという手法は、今時流行らないし、それが新しい時代も作り上げていくという可能性も皆無に等しい。ましてや大江健三郎のように高い筆力でもってあえてプロットをわかりにくくさせているという性質をもっているわけでもない。

 この作品は、ただ夫婦生活の異常性をいくつかの登場人物の個人的な主観の上で語るというのが一つのテーマであると思われるが、本当に個人レベルだし、それしかメッセージ性が感じられない。文は大きく見てフランクに進んでいく割に、台詞など言い回しはどこか古臭いし、まとまりのなさが一つ一つの文を読む上でも汲み取れる。当然、肩肘張った文章でなければ芥川賞受賞作品として高く評価されない、というわけではないということは、先人たちが証明している。小説という形で文を書く以上、良い影響も悪い影響も、統一された文体をもってして読者に訴えなければ、創作としての価値を削ぐし、最悪文字の羅列で終わってしまう。

 過去の受賞作を振り返っても、芥川賞を受賞したにも関わらず低い評価が下されるという事は頻繁にあったし、第一「文学の衰退が叫ばれて久しい」などという言葉はもう数十年前から言われている。ならば現代の純文学作家は、他の高名な作品を鑑賞する際に、何故その作品が人々に受け入れられるのかということを、もっと様々な角度で分析するべきだと思う。恐れずにそれをこなせたアーティストのみが、革新的な芸術作品を創ることの出来る登竜門に立てるのではないか。