くまの書評ブログ【すべての書籍は血肉縁】

“血”となり“肉”となり、人々の“縁”となる読書の素晴らしさを、野獣目線で呟いていきます。

つげ義春の多才ぶりが見られる珠玉の短編集【蟻地獄・枯野の宿】

 

蟻地獄・枯野の宿 (新潮文庫)

蟻地獄・枯野の宿 (新潮文庫)

 

 

 まだ僕が若かったころ、【無能の人】を読んでひどく共感したり、【ねじ式】を読んでナンセンスなのにものすごいセンスを感じたりしたものだった。ただし同時にその瞬間、つげ義春という漫画家は、ダウナーで芸術的な作品を描く人なのだな、というイメージばかりついてしまった。

 つげ義春の短編が収録されている新潮文庫で出された本としては三冊目の本、それが【蟻地獄・枯野の宿】。本作はつげ作品のもつ(僕のような無知な読者が一方的に持っていた)単調なイメージを覆してくれる、そんな短編ばかりだ。

 一読しただけで「これはアンソロジーか?」と思ってしまったほど、実に多種多様なストーリーの短編が収録されていて、改めて氏の才能の広さと深さを知った。絵柄もまたそのジャンルによって違う。時代物なら時代物らしく、SFならSFらしく。それらは確かに手塚治虫作品や白土三平の功績、SFブームなど当時の背景が影響していることは否めない。だが、それでも自分の事をあれだけ不器用で地味な漫画しか描けないなどと言っていた氏が、この作品集だけでも幅広く描いているのだから、その多才ぶりには舌を巻く。SF、時代物、そして他の作品集にも見られる、旅行物、日常……。貸本時代に、それもここまで起承転結をつけてわかりやすい作品を描いているのだから、そのエンターテインメント性や引き出しの広さたるや驚くという他ない。多くの無名なガロ系漫画家のようにただ文学(っぽい)作風に傾倒しているわけではないのだ。

 それにしても、つげ作品というのは何故あそこまで沢山の人の心を揺さぶる物があるのだろう。それは、登場人物の心理や台詞を複雑に交錯させながら、その難しさを表情や姿勢、背景などでしっかりわかりやすく伝えているからだ。

 例えば、日常もののはずなのに、その主人公はたいてい猫背で下を向きながら歩いている。どこかの宿に泊まる話でも、旅をしているはずなのに両手をポケットに入れながら外で歩きつつ考え事をし、荷物は持たない。主人公達は名実ともに「持たざる者」だ。心の空虚感を、人物や情景に体現させているのだろう。手ぶらで歩き回っては、満たされない何かの為に生きる。しかしそれが良い方へ向かうことは一度だってない。

 ジャンルに限らず、実に多くの作品がビターエンドで終わる。例え何らかの形で話の結末を考えたとしても、人生は続いていくことを感じさせる。七転び八起きで、一ついいことがあったとしても、また一回転んで物語は幕を閉じる。そして最後のコマの後に、6回転ぶのだ。その後には立ち直れるかわからないまま。

 つげ作品は終わらない。今の時代でも読み継がれ、多くの熱狂的ファンがいるのも、人生もまた生きている限り終わらないということを、それらの作品が教えてくれるからだ。逆説的ではあるが、そう考えると、何と希望に満ちた作品群であろうか。今は特に、先の見えない不透明な時代などと言われるが、そんな時にこそ、生きている限り人生は続く、という、当たり前なのに見逃してしまいそうなことを、つげ漫画がもう一度向き合わせてくれるのだ。

 特に本書は、過去、現代、未来と時代を超えた視点で、“人間”をただ描く。そしてどれも非常に面白く、共通して人々の本質や感情、執念や業などを描き、漫画という枠組みを超えて後世にも広く影響を及ぼした。これこそまさに、内容にも表れている通り、氏の作品が貸本時代も今も、そしてこれからも、人々の心の琴線に触れるものであることの偉大な証明の一つだ。