くまの書評ブログ【すべての書籍は血肉縁】

“血”となり“肉”となり、人々の“縁”となる読書の素晴らしさを、野獣目線で呟いていきます。

【騎士団長殺し】かもしれないが多すぎるかもしれない【遷ろうメタファー編】

 

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jiru4690.hatenablog.com

 

 

「若くして伝説になることのメリットはほとんどありません。というか、私に言わせればそれは一種の悪夢でさえあります。いったんそうなってしまうと、長い余生を自らの伝説をなぞりながら生きていくしかないし、それくらい退屈な人生はありませんからね」

 

 

 

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

 

 

     小説家としての村上春樹は、デビューから数年も経たないうちにベストセラー作家となり、今尚その名を世界に轟かせている。そこで、作中に出てくる上述のセリフを自分に当てはめているわけでは、まさかとは思うが、ないだろう。
     確かに、最近の作品の中で言えば、本作はどちらかと言うと良作の部類に入るかもしれない。いや、むしろ90年代以前の過去の作品と比べること自体間違ったことなのかもしれない。過去の作品が時代を追うごとに輝きを増すのは当然だし、今というこの時代に新しく出たものは、やはり色眼鏡で見られてしまうものだ。
     本作の主人公が、肖像画を“目の前の対象ではなく自分の世界で描いた”ことに重きを置いて描く、ということを、物語の枢軸に置いたことの裏側には、昨今の村上作品そのものを、著者が自己批評でもしているのか、と思ってしまうのは考えすぎだろうか。やはり日本人の現役専業小説家の中では世界でトップクラスの知名度を誇る著者は、苦しい執筆生活を強いられているのか。
    いや、それはちょっと違う気がする。
    著者がよく小説、エッセイ問わず口にする「小説家になるには才能が必要」。特に今作は芸術家が主人公であるがゆえに、それぞれの人物の“生まれ持った能力”というファクターの比重が多作品より強くのしかかっている。
    村上作品の主人公と言えば、今風な表現だと下手すれば「陰キャ」扱いされてしまうかもしれないあの特徴的な人物達。なのに何も不足しない、必要最低限以上のものが手に入る、やや非現実的な構想も然り。おまけに、努力すれば簡単に望むものを手中に収め、事件や事故などなく、あったとしても些細な事物として流してしまうその精神。
    本作は、村上春樹の集大成なのか?

    それもまた違う。
    ただ、これまでの作品に沿った形で、セルフパロディと言えるほどに本文の特色がかなり濃く出ているのは、即物的である反面、いつにも増してわかりやすくて天晴とも言える。
     著者は過去の栄光にしがみついていないし、ましてやファンサービスに溢れているわけでもない。しかし、“目の前の対象ではなく自分がかきたいように”、すなわち、「作り手による魂が込められている」と言えば聞こえはいいが、どうにも読み手を意識しないままついにここまで来てしまったか、という驕り高ぶった精神が見え隠れしているのも否めない。それとも、氏の他のエッセイを見る限り、最初からそんなお人だったかな……

 

    さて
    この【遷ろうメタファー編】では、更に「騎士団長」と「主人公」の関係がより深くなり、主人公はある重大な決断をする。前編で、うんざりするほどに並べられた謎だらけの現象や事物、タイトルも、ある程度まで伏線を回収する。「顔なが」などの正体も明らかになる。(また、あくまで余談ですが、後半に出てくる「顔のない男」って、まるで過去作の佐々木マキの描いた表紙絵を想像してしまいました)。
    何より、メタファーという言葉には、彼らのやり取りだけで済ませることのできない、村上春樹作品自体を表現していると言っても良い力がある。デビュー作から、今作に至るまで、いつもこのメタファーの、更にそれを覆うメタファー的なテキストで、今作は溢れていると言っても過言ではない。
    また、村上作品の主人公からはしょっちゅう、大事な人が離れていったり、行方不明になったり、最悪死んだりする。氏がこの作品を単発のものとせず、自分のこれまでの小説に対して、自分に騎士団長の存在のような意識の中の力を働かせたのだろうか。
     そこで、これまで氏の作品を読んできたことのある人は、過去の登場人物達の言葉を思い浮かべることがあるかもしれない……

 

小指のない女の子:「何故いつも訊ねられるまで何も言わないの? 一つ忠告していい? 治さないと損するわよ」
羊男:「あんたが自分のことしか考えないから、いなくなっちゃったんだよ」
緑:「それはあなたが『他人にどう見られてもいい』と思っているから、一部の人は頭にくるんじゃない?」
笠原メイ:「考えなさい、考えなさい、考えなさい」

 

    最後に
    私は今回の作品にあまり強烈な“何か”を感じることが出来なかったと前回の記事に書いたし、やはり今でもそう思う。鏡が物理的な反射をしているからといって、小説が読み手の心を反射しているわけでもないのは当然のことだし、そこまでの魂をこの作品に感じることも出来なかった。
    しかし、ある意味では本作は、村上春樹のテイストがなされているというだけでなく、村上作品全体としての特徴そのものが入っていて“それらを楽しめる人には楽しめる”ものではないかもしれないし、あるいはそうではないかもしれない(汗)。
     このテイスティなテイストは、今後も続いていくのか、それとも全く新しい路線をどこかで生み出すのか。


    騎士団長殺し、いや、村上春樹作品は、これで終わるわけでは、あらない。
    まだまだ続く。

【騎士団長殺し】ぼくはごく普通の人生を送ってきたごく普通の人間です【顕れるイデア編】

    読みました。

 

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

 

 

    今回の主人公はかつて肖像画を専門としていた36歳の画家。


    主人公は冒頭から、妻より別れ話を切り上げられ、家を出る。ちょっとした旅行や中古カローラの購入などを経て、美大時代の学友が貸してくれた小田原の家へと赴き、住むこととなる。
その屋根裏でたまたま目にした日本画「騎士団長殺し」。
見事な出来の絵だ。しかしこの絵は一体、どのような意図をもって、どう描かれたのか。何故日本画に「騎士団長殺し」というタイトルを? 何故画面の左端にいる「顔なが」に、私は目を離せなくなったのか。
それからというもの、奇妙な出来事、奇妙な人物、奇妙な声、そして「騎士団長殺し」から「殺し」を抜いた存在、、、謎は謎のまま新たな謎を作りながら並行してものごとが規則正しく進んでいく。

 

   はい。

   一言で言ってしまえば、これまでの春樹作品よりズバ抜けてる部分があるものではありません。個人的な感想になりますが、【ねじまき鳥クロニクル】や【世界の終わりとハードボイルドワンダーランド】を読んだ時の神がかった“何か”が湧いてくるものでもありませんでした。愚作ではないが、主人公がいつも自己紹介をするように「ごく普通だよ」とサラッと言えてしまえるような、良くも悪くもを安心して読める小説です。

    最初は、【ねじまき鳥クロニクル】のように主人公の意識を中心に周りからの小さな介入を経てストーリーが進行していくのかと思いきや、どちらかと言うと本作にこれまでの氏の作品と共通点かあるとしたら【ダンス・ダンス・ダンス】寄りか。主人公がフリーな身で、依頼された仕事を引き受けると言う身から始まるのもそうだし、いるかホテルよろしく一つのある場所が物語の中枢を担うし、ちょっとしたサスペンスがあったり、中盤辺りから幼い少女がキーになる役を果たしたり、いろいろ共通点がある。
     その他の要素も、残念ながらそれほど真新しい何かが用意されているわけでもなかった。地面の底(ねじまき鳥でいう井戸)のような暗闇の概念が出てきたり、死と生が一つになっているという【ノルウェイの森】の名フレーズを思い出させるような展開があったり。ちなみに、「遠くから見ればおおかたのものごとは美しく見える」とか、モロ既視感バリバリなサブタイトルも出てくる。そして、あいも変わらず主人公と女との度重なるセックスは切っても切り離せないし、芸術作品に関する薀蓄もお酒も特異な言い回しや例え話、スベってるジョークなど、どこもかしこも平常運転。少なくとも第一印象としては、過去作を糊で固めて繋ぎ合わせたような読後感が残った。
    しかし、過去の栄光の焼き直しのように見えてしまえるような本作だが、多少なりとも新しい試みもなされている。

    例えば、今回は芸術家が主人公でその抽象性を中和する役割なのか、タイトルの「騎士団長殺し」がかなりダイレクトかつ明確なテーマになっていて、起こり続ける出来事もまた、読者の想像に委ねようとしたりするのではなく、わかりやすい事物や心理描写で占められている。かつての村上春樹作品にも前例がなかったわけではないが、明確さと非明確さが共存しつつ、バランスをとりながら物語がしっかり軸を持って進んでいくという長編小説は、氏の作品の中で言えばそれほど多くなかったと思われる。過去作においては、たいていは「村上春樹が言いたかったのはこういうことなんだよ!」という議論がなされてきたと思うのだが、今回はそのようなわかりにくさは少ないように思われる。それが良いか悪いかは別にして。
     また、W主人公のように、主要キャラを最初から複数用意して、物語が同時進行していくというパターンはこれまで何度かあったが、前半から「免色渉(メンシキワタル)」という、完全に脇役でありながらも、出番が“2番目に”多く、且つ主人公に深く介入してくる絶妙な位置付けのキャラがいるのも、いささか新鮮だった。
     後半からミステリアスな部分もあるが、やはりそこは春樹作品、絶対に表舞台に不可思議な要素が暴れてきたりしないし、ましてや馬鹿みたいな社会批判に走るような事件が起こるようなこともない。常に氏の作品は登場人物の中で終始し、それが読者の心に訴えかけるという手法を取ってきた。今回もまた例外ではない。
     超常現象が顕にならない。つまり我々がこの国で普通に暮らしている間に感じる「日常」と、氏の独特な世界観で彩られる「非日常」。つまりこの本は、従来のハルキストの間でも、逆に賛否分かれる作品になりそうです(氏の作品はもともと賛否が分かれやすい傾向にありますが……)

    少なくとも物語の一部は、そんな感じで進んでいきます。このまま何かが起こっているようで何も起こらない世界が進んでいくのだが……

 

(つづきます)

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思考法を纏めたビジネス書の秀作【降りてくる思考法】

 【降りてくる〜〜】というタイトルだが、決して「何かスピリチュアルなものが降りてきた」とか、そういうことではないし、また、腰巻きに「ロジカル・シンキングはやめなさい!」と銘打っているが、論理的思考を軽視しろと言っているのでもない。
    本書は、クリエイティブな思考法を謳うだけあって、普通に生活しているだけではなかなか気づきにくいところまで考えて、一冊の本に仕上げている。ここ最近読んだビジネス書の中では、比較的上質な中身だとも言える。

 

降りてくる思考法 世界一クレイジーでクリエイティブな問題解決スキル

降りてくる思考法 世界一クレイジーでクリエイティブな問題解決スキル

 

 

 

Part 1.あなたの可能性を最大化する思考法

 

「すべての人間は考えることが苦手だ」という前提から始まり、無数の“枠組み”を作っていると指摘している。確かに、世間的な問題や価値観は、“枠組み”によって支配されていると言っても過言ではない。戦争がなくならないのは「他国・他民族を信用すべきでない」という恐れからきているし、女性が体型を気にするのは、「太った体は美しくない」という観念に基づくものだ。そして、そういった価値観等も含めて、ほとんどのところは“無意識”が決めている。そして、その無意識にアクセスするために、“意識”を徹底的に使う、つまり、あるテーマや課題に対して意識を集中させて使った時に、無意識の領域が持つポテンシャルをたっぷりと引き出して使うことができるのだ。そのために、著者は「メタ思考」(何故? と問い続けるクセを持つこと、脳を休ませることなど)のやり方を、本書で述懐している。次の章では、更に、可能性を最大化する方法を紹介している。

 

Part2.脳を狭く小さく使う48のスキル

 

    この場で48のすべてを紹介することは出来ないが、私が感銘を受けた項目がいくつかある。
    まず「なくす」
    人間は、極度のミニマリストでない限り、本当に必要のないものまで取っておいてしまいがちだ。しかし、ただモノをなくして最低限の生活をしろ、と言いたいのではなく、どうしてもなくせないものから組み立てることで、新しいものを生み出すことができるとしている。例えば、カードという物は、クレカであれポイントカードであれ、どれも単に「個人認証」をしているだけに過ぎない、となると、普段持ち歩いてもいいものだけを絞ると、それだけで普段の自分の生活を見直すことが出来るのだ。中には、「肝心なものをなくす」という、ちょっとアグレッシブなアドバイスもある。電車に車輪をなくす、という発想からリニアモーターカーの技術生まれる訳だし、Twitterにしても長文のメッセージをなくしてしまったことによって他のSNSとは違うタイプを生み出した。その肝心なもの、というのは、捨ててしまうというのもイノベーションの一つなのだ。

    もう一つは「くっつける」。
イデアとは既存のものの組み合わせだ、とはよく言ったものだが、その既存のものを超えるレベルでのアイデアは、実はこの「くっつける」ことにあるという。私も同感だ。
例えば、私自身も子供の頃あらゆるテレビゲームをやってきたが、超がつくほどの人気作の続編は、「くっつける」ことによって新たな魅力を引き出したものがある。例えば、ファイナルファンタジー5のジョブチェンジシステム及びアビリティシステムというのをご存知だろうか。ジョブ(職業属性)や、そのジョブに合った能力(アビリティ)で戦うという発想は、既に5より前にあったが、そのジョブとアビリティをくっつけて自由に自分のプレイアブルキャラクターをカスタマイズするというやり方で、抜群のバランス及び素晴らしいゲーム性を生み出した。他にも、初期のポケットモンスター(赤・緑)は、初代であれ、それまでに発売されてきたあらゆるゲーム(魔界塔士サガ、MOTHER、女神転生など)のシステムをくっつけて出来たものだという話を聞いたことがある。結果、ポケモンシリーズは世界でもマリオと肩を並べる程の人気作となった。

    更にもう一つは「〜だとすると」。
何か大きな問題が起きたら、自分がウルトラマンだったらどんなふうにして解決するのか、発想や行動力が欲しければ、アインシュタイン坂本龍馬だったらどう考えるのか。そのように自分が「〜だとすると」と考えると、様々なイメージが思い浮かぶ。ライバルを想像してもいい。もちろん、いろいろな意味で現実にありえない相手でもOKだ。出来れば最も恐れるもの、例えば、自動車部品関連の中小企業の社員であれば、トヨタの社長とか。世界平和を願うのであれば、ゲームに出てくる魔王とか。馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれないが、そのような発想から自分のやるべきこと、やりたいことが現れてくるというのは、まさに「思考が降りてくる」ことに他ならない。

 

Part3.降りてきたアイデアを育てて世に出すコツ

 

    そして、本書では特に「脳を狭く小さく使う」ことの重要性を説明している。つまり、48のスキルもそうだし、降ってきたアイデアも使いこなせなければ意味がない。その為に、「前列に縛られていないか」「自分のアイデアを過大評価していないか」「よいアイデアは論理的思考で見分けろ」など、自分の思いつきを単なる思いつきに終わらせないやり方を書いている。真新しいアイデアはとても魅力的で、それだけで十分に役目を果たしてしまったと我々は考えがちだ。しかし、すべては行動し、実現してこそ意味がある。降りてきたアイデアを十分に活かすためにも、自分を見つめ直すこともまた必要なのだ。

 

    本書は、決して常識はずれなイノベーションや突飛なアイデアを示す裏技的な本ではない。むしろ、アイデアを考える時には楽しみながらも、誰よりも深く思考する、誰よりも徹底して思考するということがどれほど必要かも書いてある。もし、アイデアに詰まったり、思考が降って湧いてきたとしても実行に移せないのであれば、それは枠組みの中にはまってしまっているからだろう。その枠組みから一歩踏み出して、自由かつ個性的なアイデアを誰もが持っている。何故なら、アイデアというものは前例がないからこそアイデアなのだから。

ジョセフ・コンラッドが伝えたかったこととは?【闇の奥】

 最近このブログで、寓話を紹介する機会が増えている。すなわち、物語が読み手に多種多様な思想や感想を与え、教えを受ける作品といったものを。

 

闇の奥 (光文社古典新訳文庫)

闇の奥 (光文社古典新訳文庫)

 

 ジョセフ・コンラッドの代表作【闇の奥】

 あらすじ(Wikipediaより引用)
ある日の夕暮、船乗りのマーロウが、船上で仲間たちに若い頃の体験を語り始める。

マーロウは、各国を回った後、ロンドンに戻ってぶらぶらしていたが、未だ訪れたことのないアフリカに行くことを思い立ち、親戚の伝手でフランスの貿易会社に入社した。ちょうど船長の1人が現地人に殺され、欠員ができたためだった。マーロウは、船で出発し、30日以上かかってアフリカの出張所に着いた。そこでは、黒人が象牙を持ち込んで来ると、木綿屑やガラス玉などと交換していた。また、マーロウは、鎖につながれた奴隷を見た。ここで10日ほど待つ間に、奥地にいるクルツという代理人の噂を聞く。クルツは、奥地から大量の象牙を送ってくる優秀な人物で、将来は会社の幹部になるだろうということだった。マーロウは、到着した隊商とともに、200マイル先の中央出張所を目指して出発し、ジャングルや草原、岩山などを通って、15日目に目的地に着いた。

中央出張所の支配人から、上流にいるクルツが病気らしいと聞いたが、蒸気船が故障しており、修理まで空しく日を送る間に、再びクルツの噂を聞く。クルツは、象牙を乗せて奥地から中央出張所へ向かってきたが、荷物を助手に任せ、途中から1人だけ船で奥地に戻ってしまったという。マーロウは、本部の指示に背いて1人で奥地へ向かう孤独な白人の姿が目に浮かび、興味を抱いた。

ようやく蒸気船が直り、マーロウは支配人、使用人4人(「巡礼」)、現地の船員とともに川(コンゴ川)を遡行していった。クルツの居場所に近づいたとき、突然矢が雨のように降り注いできた。銃で応戦していた舵手のもとへ長い槍が飛んできて、腹を刺された舵手はやがて死んだ。

奥地の出張所に着いてみると、25歳のロシア人青年がいた。青年は、クルツの崇拝者だった。青年から、クルツが現地人から神のように思われていたこと、手下を引き連れて象牙を略奪していたことなどを聞き出した。一行は、病気のクルツを担架で運び出し、船に乗せた。やがてクルツは、"The horror! The horror!"という言葉を残して息絶えた。

 

 本書は、古典文学としては比較的わかりやすいテーマを掲げている反面、様々な解釈が可能な、寓話的要素も含んでいる小説であるように思える。それはひとえに、クルツの最期の言葉「"The horror! The horror!"」(黒原敏行訳だと「恐ろしい! 恐ろしい!」)、この今際の際に発された言葉が、読んだ者全てに多種多様な想像力を働かせるからだ。
 【闇の奥】原題は「Heart of darkness」。【闇の心臓】【闇の心】とも和訳出来そうなタイトルだが、闇の奥とはアフリカの奥地のことをも表している。つまり訳の時点で多くの解釈が可能であり、先述の通り寓話的要素をのっけから差し出してくる。
 文化の行き届いた国と、植民地支配の国の奥底。そこで見た主人公マーロウとクルツが抱いた真実は、果たして同じものであっただろうか。登場人物すらも各々の立場、見方、境遇から様々な思いを抱いたまま、物語は終焉を迎える。まさにこの小説の主張の真相こそ闇そのものとも言えるのだが、白人至上主義とアフリカの奥に存在する未開の地及び差別・階級意識。こういったものが、いつの時代にも通用するテーマになっているくらいに、全体主義、支配、差別というものを主軸に動くテーマが躍動するほどに、人間はいつの時代も変わらないものなのだろうか。
 きっとそうなのだろう。真実を書いても、それぞれにとって都合の悪い点を光で照らしても、史実や人の感情は簡単に捻じ曲げられてしまう。実際、この小説に影響を受けたとされている、村上春樹の「羊をめぐる冒険」ですら、読み手によって様々な解釈を生み出した。つまり、寓意だ何だと言っても、この小説そのものが人の心の闇を書いたのではなく、読む者がこのような物語を自分の中で意味を勝手に産み出すのだ。それも自分に都合の悪くなりすぎない程度に。
「今のアフリカがどうしてこんなに混沌としているのかがわかる」
「未開人の恐怖と白人の責務を書いている」
「白人に留まらず人間の原罪を問いかけた話」
 など、あらゆる解説やサイトを見ても、その感想や結論はバラバラだ。もちろんどれも間違っていない。
 しかし、世界を内包する光と闇が、人間の心そのものと変わらないものであるとしたら、それこそ人間が作り出した光と闇というものは、何と自分勝手なものでしかないのだろう、と私は思う。

 

 コンラッドがこの小説をもって何を伝えたかったのか、真意は何か、ということは、わからない。だが一つ確かに言えることは、「人は、本当の意味での自分の心の闇の奥底を覗こうとはしないし、出来ない」ということである。
 かく言う私も、この本を読んで世界や人類といった曖昧な悪を考えさせることは出来たが、自分の心に存在する“都合の悪い部分を含む”闇の奥を覗こう、とは思わなかった。

約10年ぶりくらいに【夢をかなえるゾウ】を読み返してみたら

    前回は取り乱してしまいましたm(_ _)m

    さて、今回はこの数日の間に自分のことをいろいろ考える機会があったので、その話も混じえてしていこうと思います。

    その際に取り上げるのは、この本。

 

夢をかなえるゾウ文庫版

夢をかなえるゾウ文庫版

 

 

    2007年に単行本版が上梓されて大ヒットした自己啓発型の小説【夢をかなえるゾウ】。

    私がはじめて読んだのが20代の前半頃だった。

     この本は本当に画期的だった。

    当時、様々な自己啓発本が溢れている中で、敢えて小説という形態を取りつつ、「ガネーシャの教え」として、成功したいと思う人のために、歴代の成功者や偉人のやってきたことを引用して教授している。そればかりでなく、“この本に書いてあることはすでにあなたが持っている本に書いてあることばかりです”と言った具合で構成されており、それでも今こんなタイトルの本を手にとって読んでいるということは、「この本はこれまでの自己啓発本と違いますよ」というメッセージと共に「あなたは今、数々の本の言う通りにする日々を全く送っておらずに、無為に日々を過ごしていますね」という教訓をも与えた。ガネーシャと主人公のやり取りの如くハチャメチャで、挑戦的かつ斬新な本だった。
     何より、一番この本のメッセージの中で“効いた”のが、こちらだ。

「けどなぁ……期待しているかぎり、現実を変える力は持てへんのやで

     自己啓発本を読むということは、率直に言うと成功していない人にとってとてつもない娯楽だ。何故なら、本の中の成功者をイメージし、「自分もこうなれるんじゃないか?」という期待に胸を膨らませ、あまつさえ成功者になり切れることすら出来てしまうからだ。そういった手痛い現実や本質を書いた本は、今でもやはりこの本を除いて他に知らない。

 

    自分の話をしよう。

    私がこの本を読んで約10年が経過した。
結論から言うと、ガネーシャ(本書)の教えを愚直に守らなかった今の私は、少なくとも他人から見たらとても成功者とは言えない。
     10年前の私は、音楽でボーカル兼キーボードをやっていて、インディーズレーベルにも声をかけられて、ちょっと調子に乗っていた時期であった。このままいけばメジャーデビューなんて夢じゃないと思っていた。【夢をかなえるゾウ】はじめ、多くの自己啓発にかぶれていた時期でもあったので、それを少しずつでも守っていけば、成功出来るなどと思っていた。
    そして、当時は、それこそがまさに「未来に期待しすぎている」という自覚も出来ないまま、ただ無為な時間や辛い日々を過ごした。リーマンショックで仕事はクビになるし借金には追われるし、結果、晴れやかな世界に足を踏み入れることはおろか、インディーズレーベルでCDすら出せずに終わった。おまけに、大した理由もない癖に自分で勝手に音楽の夢まで諦めた。少なくとも、この本をはじめて読んだ時の夢をかなえることはとても出来なかった。それもこれも全て、努力不足云々の前に現実を見ておらず、何より自分というものをしっかり理解していなかったためだ。
     とはいえ、この10年間不幸だったというわけではない。いろいろな仕事も経験出来たし、結婚もできたし、何より生まれつき患っているとある持病もだいぶ寛解しているし、そのおかげで今また、第3種電気主任技術者電験3種)の資格を取ってバリバリ仕事をしたいと思えるようになったり、新たな夢をかなえるために努力出来る環境にある。
    全部ひっくるめて、いろんな経験が出来て良かったと思っているし、これからもどんどん成功も失敗もしていきたいと思っている。
     もうとっくに30過ぎているし、あまり失敗ばかりでは取り返しがつかなくなるのではないかという不安もなくはないが、それでも、若い時の自分の頃のように自己理解も自己表現もまともにしようとせずに後悔していた時に比べればマシになっている……と思いたいσ(^_^;)

     話を元に戻して、この本のことを。

     この頃、もう一度、私はこの本を時々読み返しては、楽しませてもらっている。今度は、書いてあることを愚直に守るためでなく、あくまでエンターテインメントとして読むために。
本書に書いてある課題は素晴らしい内容ばかりだし、ググればいろんなサイトやNAVERまとめにも載っているくらいだが、課題を全部やりきるのが自分の人生そのものではないし、こう言ったペースメーカー的な役割として使おう、という割り切りで自己啓発本を読むのもまた面白い、と思った次第である。

    なんか、まとまりもとりとめもない文章になってしまったが、要するに何が言いたいかというとーー
     私は、専業ミュージシャンとか、そういう若い頃の夢は叶わなかったけれど、一番の目的である
「幸せになること」
    今の自分が、その最大の目的を継続出来ているということである。
    だが、これに満足してはいけないのは当たり前。
    幸せは、得るよりも、守り続けることの方が大変なのだから。