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くまの書評ブログ【すべての書籍は血肉縁】

“血”となり“肉”となり、人々の“縁”となる読書の素晴らしさを、野獣目線で呟いていきます。

思い出は美しいまま蘇ってくる【フルーツバスケットanoter】

 私が、少女漫画で泣いたのは後にも先にも、もうかれこれ10年以上前に読んだ、この【フルーツバスケット】だけ。

 

フルーツバスケット 全23巻完結セット (花とゆめCOMICS)

フルーツバスケット 全23巻完結セット (花とゆめCOMICS)

 

  ストーリーや登場人物の優しさはもちろんのこと、何より印象に残っているのは、アニメ版。それも、主題歌を歌う岡崎律子さんの素晴らしい曲と歌声。

 あのアニメを観てから今に至るまで、岡崎律子さんは私の中で最も好きなアーティストであるし、フルーツバスケットも一番好きな少女漫画である。

 さて

 今回読んだのは、その続編ともいえる【フルーツバスケットanother】

 

フルーツバスケットanother 1 (花とゆめCOMICS)

フルーツバスケットanother 1 (花とゆめCOMICS)

 

  前作の主人公の透達が卒業した海原高校の数十年後を舞台に、新しい主人公三苫彩葉、そして、新しい草摩家の、個性豊かな登場人物たち。

 主人公は、透と違って、後ろ向きで引っ込み思案な女の子。いつも自分を責めてばかりいる。高校入学早々遅刻を先生に見つかってしまい咎められているところを、とある美少年に助けられる。その後も、数々の草摩を名字に持つ美男子が現れ、主人公は少しずつ自分に自信を持ち始め

 ——ってこう書くと何だかわりとどこにでもある少女漫画の設定ですね(汗)

 でも大丈夫。

 本作は、前作にあるような優しさや、人との付き合いの中で成長していく過程、心理描写などがふんだんに散りばめられていて、まったく初めて読む方でもおすすめできる内容となっています。

 過去に読んだ名作の思い出が、次々と蘇ってくるようです。

 

 しかし、この手の続き物としてついて回るのが、やはり過去作との比較。

 「前のほうがおもしろかった」「思い出を汚さないでほしい」といった内容の批判が出てしまうのは、ある意味仕方がないことなのかもしれない(実際にそういう声があるのかどうかは不明だが)。かく言う私も、本作の漫画は良いと思ったものの、アニメ化しても多分見ない。岡崎律子さんの歌わないフルーツバスケットなんて、私にはありえない。

 どのような作品でも、懐古主義とか以前に、どうしても過去が輝くのは当たり前なのだ。よほど新たにソフィスティケートされた新作でなければ、前作と比べられてしまうのも仕方がない一面もあるのだろう。

 しかし、私は、本作からある一面を読み取った。

 前作では、透の存在によって、数々のトラウマや呪いに苦しめられてきた草摩家が少しずつ明るさを取り戻していく作品であった。今回はその逆で、新たな草摩家の人物たちが主人公の支えになる(現段階では)。そして今後は、おそらくこの主人公も、草摩家や他の登場人物たちに笑顔を与えられるキャラクターに成長していくのだろう。

 それを考えると、決して思い出が汚されてはいない。透という一人の少女の前向きさがずっと当時の草摩家の人物たちを支えてきたのが、数十年経った現在でもなお息吹いていることの証だと思えるからである。

 人は、成長するたびに歳を取っていくし、その過程で様々なこと、特に嫌な出来事や苦しい場面に遭遇することも多々ある。しかし、それに挫けず、めげない透の姿勢が、時代を超えてまた新たに一人の少女を笑顔にしている。今作はまだ一巻目で、泣くような部分はないものの、最初に前作を読んだ時の一つ一つの力強さや涙を拭おうとする生き様が、またこうして新たな形で読めることは、感無量の一言に尽きる。

 確かに、失ってしまって取り戻せないものもある。しかし、フルーツバスケットという作品全体を通していえることは、いつの時代も残せる、人と人との笑顔や楽しさ、今作の最後に出てくるような鍋パ(狙ったかどうかは不明だが、前作の一巻目の最後も、ゲームのフルーツバスケットをやっている透の回想シーンだった)のように、みんなで笑いあえる心の通じ合いなのだと思う。それを思うと、10年以上前に読んで涙したあの時の感動を、いつしか忘れていた自分に気づかされる。

 

 最後になりますが、〝新たに〟フルーツバスケットという作品を書いてくれた作者に、心から感謝の念を送りたい。

若き政治家の熱いメッセージ【だから政治家になった】

    本書は、元総理大臣の秘書を務めた後、27歳で神奈川県議会における県政史上最年少議員として当選した政治家による政策本である。

 

だから政治家になった。矛盾だらけの世の中で正論を叫ぶ

だから政治家になった。矛盾だらけの世の中で正論を叫ぶ

 

 



     貧しい母子家庭から、ダイニングバーをオープンしたりベンチャー企業役員になったり、といった経歴を語っているところをみると、単なる自慢話かとも思われがちだが、実際はそうではない。世の中の甘くない現実や、高齢化社会における弊害、現行の社会制度の甘さや若者世代への投資の拡充の必要性などを懸命に訴えている。
    本書の中には、政治家とはどのような職業であるべきなのか、そして我々国民(有権者)がどのような立場で政治に関わっていけばいいのかということもわかりやすく書かれている。この日本社会において国民(主に若者)がどんどん声をあげて政治と自分の生活をしっかり考えることの大切さも主張していて、読んでいて「ああ、この著者はただ自分のしてきたことを普遍化したいわけではないのだな」ということがわかる。
    その上で、著者の具体的な政策を紹介すると、以下の5つである。

 

1.チルドレン・ファースト ますは未来を担う子ども・若者世代への投資を拡充


    ニュースでもよくみかけるが、子どもの貧困を放置するだけで総額40兆円の損失があげられるという推計があり、当然これは日本中全員にとって関わりのある事柄である。働く父母や、すべての勉強したい子どもたちに、教育が与えられるよう、学校を大学まで無償化し、日本の力を底上げする。

 

2.全世代の“人”に向けた投資の拡充と持続可能な社会保障制度の堅守


    アベノミクスの失敗により、国民がそのツケを払わされている現状を打破するために、全世代の困っている“人”に向けた投資を充実させることで、持続可能な社会を目指す。

 

3.最先端技術を活用した第四次産業革命とふつうの人から豊かになる経済再生の牽引


    日本の経済成長率が著しく低いのは、不要な公共事業や既得権益層へのバラマキという旧来的な手法を軸として政策を進めていった結果、成長戦略が上手くいかないところにある。そこで、AI、ロボット、VR、ドローンといった最先端技術を駆使し、生産性、利便性を高めることによって人々の生活を豊かにし、国力をあげる。

 

4.ICTを活用した社会のスマート化と行財政改革の断行


    1000兆円を超える日本の莫大な借金を、「ICT化」「見える化」を基準とした行財政改革を徹底して行うことが必要である。具体的には政府・行政事業を定量的・定性的な指標を用いて評価し、すべての事業の見える化を図り、国民に公表することで真にクリーンな政治を進め、無駄をなくす。

 

5.原発ゼロ社会の実現と平和・憲法を護る


    安倍内閣原発推進や集団的自衛権の行使など、強権の暴走に歯止めをかけるためにも、「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」を基調とした立憲民主主義を守る。シェールガスメタンハイドレートなど、様々なエネルギーのベストミックスによって、2030年代までに原発ゼロを目指す。

 

    最後に

 

    本書では、著者の言うところには、甘い部分というか、無理無謀に見えるところが散見される、というのも否定できない。しかし、それはもしかしたら、我々があまりにも現代の日本社会に対して無関心である人が多すぎることの表れなのではないかとも思う。
    確かにそのような、国民に深く物事を考えさせず、政治や投票に関して無関心な社会構造を構築してきたのは今の政治家や既得権益層だ。しかし、それを理解した上で、我々は考えて行動していかなければならない。そこで著者は、溢れんばかりの行動力と知恵で、そのアプローチをこの本に凝縮させている。決して政治家になって権力を濫用するためではなく、このように若い世代の力強いパワーを、もっと積極的に広めていくことが、我々日本人全体の課題とも言えるのだろう。普段から、保守的であることと事なかれ主義であることを履き違えている人が多いようにも思える私から見ても、本書は新鮮だった。もし、現時点で自分の人生に言いようのない理不尽さを感じている人がいるとすれば、苦しまないようにしているはずなのに生活が苦しいのは何故なのか、ということも、考え直す必要があるだろう。

新しいムーブメントとは、他人や環境に惑わされないこと【あなたが世界のためにできるたったひとつのこと】

     世界のためにできる、なんて出だしからして、なかなか一般人からは受け入れ難いタイトルではある。

 

 

    実際結論を先に言ってしまえば、大事なことを説いてはいるものの、中身はかなり極端な事例ばかりだし、何より「たったひとつのこと」であること(利他主義になる具体的な方法?)が、的を絞って書かれていない。悪本とは言わないが、こう言った内容の本に扇動されて自らの生活基盤や態度を考え直してしまうのは、得策ではないしむしろそれこそ問題を真正面から見ていない姿勢そのものだと言える。

    書かれているその極端なこととは、非常に質素な生活を暗に勧めたり、4500万ドル寄付した大富豪の例を出したり、と、そんな感じだ。もちろん世界の先進国の人間が皆そうできるわけではないし、ましてや日本では、「世界や社会のことよりも、身の回りのことを考えよう」という社会規範が強い国なので、この本に書かれてある内容は殊更行動に移しにくい。
    とは言え、学ぶべき部分もいくつかはある。
    先進国の中でも日本という国では「自分だけでなく、他人や社会全体が今より良くなれば」と思う人は少なくないだろう。実際、日本は他国への援助額やチャリティーの規模は世界でもトップクラスであるし、決して他人や他国に対して無関心な国ではないのだ。
    だが、それでもこの本は、世界の小口の寄付者に対して、こう指摘する。


「実際に、チャリティー団体にお金を寄付する人間は多いが、それがどのように使われるか詳しく調べる人間は少ない」
「寄付されたお金がどのように使われるかを詳しく知ると、寄付の額が減る」


    そして、一番効果のあるチャリティーの一つとして、「チャリティー活動を調査する」ことを挙げている。
    例えば、実際私達が小口のお金を寄付しようとするとき、寄付収入のうち、慈善活動費の割合が低い団体より高い団体に寄付しよう、と、一見思ってしまいがちだが、実際、慈善活動費以外にもチャリティー団体は管理費や次の寄付活動費に充てる必要もあるため、一概には言えないのだ。自分の寄付金が正しく使われるかどうか、という視点だと、どうしても目先のことばかり気にして、本質的な部分にたどり着くことが難しくなることも少なくないし、行動に移さない(移せない)ひともまた多い。
    実際、私はNPOに所属していたことがあったが、寄付金を慈善活動費に多く充当させていたために経営困難に陥り、寄付金ばかりかこれまで受けてきた税金という名の助成金まで水泡に帰してしまうNPO団体を知っている。
    他にも、フィクションだが社会風刺アニメとして名高い「サウスパーク」では、舞台になっている場所の市長が、慈善活動に“直接”参加するという話が持ち上がったときに「忙しいから」という理由で一蹴したシーンがある。
    早い話、大口の寄付者はチャリティー先をきちんと調べるものの、絶対数が少ないし、小口の寄付者は数は多いが善行が正常に形となって機能していないケースが多々あるのだ。


     そんな中、本書では、多くの指標や考え方を示してくれてはいるが、本の内容ではなく、一番覚えておきたいと個人的に思ったことは、こうだ。
    最も危険かつ無為な行動は、このような内容で扇動されて、思考停止に陥ることだ。

    繰り返すが、本書の言う通りにする(または、読んだ後に完全に無視する)のが悪いというのではなく、肝要なのは自分が考えた末に行動すること、というところにあるのだ。

 

    本書が与えてくれるのは、世界や社会のためになりたい、と思う人のためのヒントに過ぎず、あなたの立場がどうであれ、実際にこの本の通りに行動してしまえば、それこそ本末転倒である。
    本書の内容そのものにとどまらない、他人や環境に惑わされたりしないことも大事なことだと、逆説的に知る、良いきっかけになった。

天才的な日本語を、更に天才が面白い日本語に訳した本

    ジェイムズ・ジョイスの【フィネガンズ・ウェイク】を見事に訳した、柳瀬尚紀氏。本書ではその著者が余すところなく日本語の面白さ、素晴らしさ、自由自在さを紹介してくれている、エッセイ集である。

 

日本語は天才である (新潮文庫)

日本語は天才である (新潮文庫)

 

 

    私も思ったことがある。
    例えば、洋画を観ている際に、字幕で韻を踏んだ掛け言葉が出てきた時、「これって日本語ではシャレになっているけど、原文だとどうなっているんだろうな」と。
    だが、本書を紐解くとその端緒が少しでもわかるのだ。
    それと同時に、日本語が如何に、他の言語に比べて変幻自在で、多大な表現を含んでいることを。
    例えば、こんな英文と日本語訳が出てくる。

 

You are a full moon.「されば、かの満月か」
You are a fool, moon.「去れ、バカの満月か」

 

    両者の英文は似たような発音だが、日本語訳は全く同じ発音で訳せる。当然意味は全く異なるところに、日本語はちゃんと意味や筋が通った訳が用意されているのである。

    私は、他言語に全くと言っていいほど詳しくないが、日本語というのは非常に独特だということがわかる。難しい言葉にふりがなもつけられるし、古来からの様々な表現や方言など、種類も非常に豊富。
    この【日本語が天才である】。日本語という無生物主語に対して天才であるという述語をつけたのも、もちろん著者の言葉の妙の一環であるが、実際は、著者のようなあらゆる言語の天才があらゆる言語表現を尽くした実績があるからこそ、本書のように日本語を更に面白い日本語に訳すという妙技が可能なのである。
    フィネガンズ・ウェイクの著者であるジェイムズ・ジョイスも、英語圏の辺境の地であるアイルランド出身で、著者もまた日本の最東端の根室出身である。本書では、そんな根室で生まれた著者による方言による日本語の節が4ページほど用意されている。その4ページだけで、如何にして著者が巧みな翻訳をこなすという偉大な職業に就いたか、という片鱗を見ることが出来る。

 

    とにかくその(翻訳の)練習で本気になればなるほど、日本語は大した天才だってわかってきたもな。こんな天才使って仕事すんだから、こっちはなんもしなくていい。日本語が自然とやってくれるもな。おれもともと苦労って言葉嫌いだけど、苦労した苦労したって言ってへらからいごしょいも読者に食わすやつけっこういるべ。

 

     日本語は天才である、その言葉は天才が言うから間違いないのだということが、本書を見てわかる。

    また、いろは歌のように、全ての音(おん)を1回ずつ使い、尚且つ意味が通った47語が古来からあるのも、決して偶然ではないのだ。今でも、こういった47(48語)を使った言葉のみで、意味のない羅列ではなく、しっかり意味とストーリーを組み立てながら作るというのは、私には真似できない。本書で紹介されている内だけでも、作者のほか、本居宣長や、著者の知り合いの女性編集者までもが、それを見事に成している。せっかくなので、その女性編集者の方の(洋子さん:実名)が、著者の翻訳の催促のために送ったファックスの文面を引用してみよう。

 

色果つるとも 鬼洋子(おにやうこ)
せがみの手練 またフアクス
「ゲラ染めぬゆゑ日寒し」
弱き男萎える(おなえる) 骨血減り

 

    すごい……( ゚д゚)

    おっと、日本語の自由自在さや素晴らしさを紹介した記事なのに、無粋な顔文字などを使ってしまった。顔文字が悪いということではないし、むしろ万国共通で心情の表れを送る意味では便利だが、何となくこの本を読んだあとは、日本語のみで多種多様な自己表現をしなければ、という気持ちになってしまう。
    ともあれ、日本語とはなんと万能で、他の言語にはない縦横無尽さがあるのだろう、と感心した次第である。
    ちなみに、縦横無尽とは、一言で言えば「物事を思う存分にすること」という意味である。「四方八方」のように、「どの方面にも限りがないこと」という意味も含む。日本語とは四字熟語という括りだけでみても、「変幻自在」かつ「八面六臂」なのだなぁ……

【騎士団長殺し】かもしれないが多すぎるかもしれない【遷ろうメタファー編】

 

 前記事

jiru4690.hatenablog.com

 

 

「若くして伝説になることのメリットはほとんどありません。というか、私に言わせればそれは一種の悪夢でさえあります。いったんそうなってしまうと、長い余生を自らの伝説をなぞりながら生きていくしかないし、それくらい退屈な人生はありませんからね」

 

 

 

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

 

 

     小説家としての村上春樹は、デビューから数年も経たないうちにベストセラー作家となり、今尚その名を世界に轟かせている。そこで、作中に出てくる上述のセリフを自分に当てはめているわけでは、まさかとは思うが、ないだろう。
     確かに、最近の作品の中で言えば、本作はどちらかと言うと良作の部類に入るかもしれない。いや、むしろ90年代以前の過去の作品と比べること自体間違ったことなのかもしれない。過去の作品が時代を追うごとに輝きを増すのは当然だし、今というこの時代に新しく出たものは、やはり色眼鏡で見られてしまうものだ。
     本作の主人公が、肖像画を“目の前の対象ではなく自分の世界で描いた”ことに重きを置いて描く、ということを、物語の枢軸に置いたことの裏側には、昨今の村上作品そのものを、著者が自己批評でもしているのか、と思ってしまうのは考えすぎだろうか。やはり日本人の現役専業小説家の中では世界でトップクラスの知名度を誇る著者は、苦しい執筆生活を強いられているのか。
    いや、それはちょっと違う気がする。
    著者がよく小説、エッセイ問わず口にする「小説家になるには才能が必要」。特に今作は芸術家が主人公であるがゆえに、それぞれの人物の“生まれ持った能力”というファクターの比重が多作品より強くのしかかっている。
    村上作品の主人公と言えば、今風な表現だと下手すれば「陰キャ」扱いされてしまうかもしれないあの特徴的な人物達。なのに何も不足しない、必要最低限以上のものが手に入る、やや非現実的な構想も然り。おまけに、努力すれば簡単に望むものを手中に収め、事件や事故などなく、あったとしても些細な事物として流してしまうその精神。
    本作は、村上春樹の集大成なのか?

    それもまた違う。
    ただ、これまでの作品に沿った形で、セルフパロディと言えるほどに本文の特色がかなり濃く出ているのは、即物的である反面、いつにも増してわかりやすくて天晴とも言える。
     著者は過去の栄光にしがみついていないし、ましてやファンサービスに溢れているわけでもない。しかし、“目の前の対象ではなく自分がかきたいように”、すなわち、「作り手による魂が込められている」と言えば聞こえはいいが、どうにも読み手を意識しないままついにここまで来てしまったか、という驕り高ぶった精神が見え隠れしているのも否めない。それとも、氏の他のエッセイを見る限り、最初からそんなお人だったかな……

 

    さて
    この【遷ろうメタファー編】では、更に「騎士団長」と「主人公」の関係がより深くなり、主人公はある重大な決断をする。前編で、うんざりするほどに並べられた謎だらけの現象や事物、タイトルも、ある程度まで伏線を回収する。「顔なが」などの正体も明らかになる。(また、あくまで余談ですが、後半に出てくる「顔のない男」って、まるで過去作の佐々木マキの描いた表紙絵を想像してしまいました)。
    何より、メタファーという言葉には、彼らのやり取りだけで済ませることのできない、村上春樹作品自体を表現していると言っても良い力がある。デビュー作から、今作に至るまで、いつもこのメタファーの、更にそれを覆うメタファー的なテキストで、今作は溢れていると言っても過言ではない。
    また、村上作品の主人公からはしょっちゅう、大事な人が離れていったり、行方不明になったり、最悪死んだりする。氏がこの作品を単発のものとせず、自分のこれまでの小説に対して、自分に騎士団長の存在のような意識の中の力を働かせたのだろうか。
     そこで、これまで氏の作品を読んできたことのある人は、過去の登場人物達の言葉を思い浮かべることがあるかもしれない……

 

小指のない女の子:「何故いつも訊ねられるまで何も言わないの? 一つ忠告していい? 治さないと損するわよ」
羊男:「あんたが自分のことしか考えないから、いなくなっちゃったんだよ」
緑:「それはあなたが『他人にどう見られてもいい』と思っているから、一部の人は頭にくるんじゃない?」
笠原メイ:「考えなさい、考えなさい、考えなさい」

 

    最後に
    私は今回の作品にあまり強烈な“何か”を感じることが出来なかったと前回の記事に書いたし、やはり今でもそう思う。鏡が物理的な反射をしているからといって、小説が読み手の心を反射しているわけでもないのは当然のことだし、そこまでの魂をこの作品に感じることも出来なかった。
    しかし、ある意味では本作は、村上春樹のテイストがなされているというだけでなく、村上作品全体としての特徴そのものが入っていて“それらを楽しめる人には楽しめる”ものではないかもしれないし、あるいはそうではないかもしれない(汗)。
     このテイスティなテイストは、今後も続いていくのか、それとも全く新しい路線をどこかで生み出すのか。


    騎士団長殺し、いや、村上春樹作品は、これで終わるわけでは、あらない。
    まだまだ続く。